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保育園の先生への手紙(渡せないかな?) [子どもの世界]

保育園での節分の行事について、どうしても疑問を感じることがあり、先生に当てて手紙を書いてみることにします。とは言っても、保育園に渡すかどうかは大いに迷っています。心の底ではとてもひっかかっているのですが、一方で、「もめごとはできるだけ避けたい」、「今回は流してしまえばいいのかなあ」とためらってしまう弱気な部分があります。とりあえず、手紙を書いてみます。

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いつもたいへんお世話になります。子どもは「保育園好き♪」と言って毎日楽しく通っています。先生方の日頃のご苦労と子どもたちへの思いやりや優しさに感謝しています。

今回は節分の行事についてふと疑問を感じましたので、ご連絡いたします。ただ、連絡板と子どもの言葉からの感想ですのが、実際の子どもたちとのやり取りとは違っていたり、先生方の真意を誤解している部分があるかもしれません。もしそういうことがあれば、どうかお許しください。

節分に限らず、古くから伝わる行事をいつも楽しく体験させてくださってありがとうございます。そういう行事は昔の人から伝えられた知恵であり、また、人知を超えた自然や宗教的な存在に触れることのできる大切な機会だと思ってます。

ところで、うちの子どもにとって、鬼はサンタクロースと似て「実在する」と感じているようです。先日の節分でも「青鬼と赤鬼が来た。こわかったけど、つかまらないように逃げたから大丈夫だった」と少し興奮して話してくれました。園に来たサンタさんはスタッフの○○さんとすぐにわかったけれど、「鬼は本物だった!」と言っていました。

大人にとっては鬼はもちろん実在せず、ユーモラスな存在ですらありますが、子どもにとってはどうこう言っても「こわい」もののようです。

節分の行事の数日前、鬼のお面を製作した日に連絡板に「みんなの心のなかにいる鬼を書いてもらいました。いろいろな鬼がいたようです」と書いておられました。

確かに、人間の心のなかには誰でも、仏と鬼と両方が住んでいると思います。先生が連絡板に書かれたのは、例えば「お友達にいじわるしてしまう」、「家族に癇癪を起こす」など、やんちゃで周りとトラブルになるような言動を指しておられるのではないでしょうか。心のなかのそういう部分を少しずつコントロールできるようになり、「自分もお友達も家の人もみんな大事」という気持ちを育てていくのは大切なことだと思います。

しかし、この年齢の子どもがまだ鬼の存在を信じていて、こわがっていることを考えると、自分の心のなかの鬼という表現は、ピンとこないか、繊細な子どもにとってはこわい感じがしないでしょうか。聖なる自我と「鬼」の自我という対立するものが心のなかにあるということを十分理解できていないと、インパクトの強い「鬼」という言葉だけが心のなかに強く残ってしまうように思います。

うちの子は私の方から尋ねた時には、心のなかの鬼という意味がわかっていないようでしたが、次の日にふと「心のなかの鬼がうまく書けなかった」と呟いていました。私は思わず「○○ちゃん、いい子だよ。心のなかには鬼はいないよ」と言ってしまいました。この年齢の子どもに対して、人間の二面性について上手に説明する自信がなかったからです。

節分という行事の由来も、医学や自然科学が発達していなかった時代に、人間の力ではどうにもならない疫病や災難を祓うという意味だと思います。機会を見つけて、きちんとした生活習慣を身につけさせようという先生方のご配慮には感謝していますが、当日の行事でも早寝早起きや食べ物の好き嫌いなどとはあえて結びつけず、「自分や身の回りの人たちに不幸が訪れず幸せになりますように」という思いで、外から来る鬼をやっつけるという捉え方で良いのではないかと感じました。

生活習慣については日々の保育や家庭教育のなかで、子どもが信頼し大好きである先生方や親がそれぞれの言葉で語ってあげれば良いように思います。

たいへん立ち入ったことを申し上げて失礼しました。一保護者の感想としてお読みいただければ幸いです。いつも本当にありがとうございます。今後ともどうかよろしくお願いします。

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お読みいただいてわかるように、節分で行事前に鬼のお面を製作する時に「自分の心のなかにいる鬼を思い浮かべて書いてみよう」という言葉があり、当日の行事では鬼が来る前に「早寝早起きをしているか?」とか「好き嫌いはしていないか?」といった手紙が「鬼から」ということで子どもたちに紹介されたそうです。

古くからの行事を楽しみ、時にはこわがることも良い体験だと思います。しかし、こういうふうに子どもの心のなかに入りこむような教育はどうでしょうか。ちなみに、「良い子にしているか〜?」というのは東北のなまはげでしたでしょうか。そういう伝統があるのならまだしも、恐怖という感情のなかでしつけをする方法には疑問を感じます。

最近、少し保育理論を勉強しました。私は現在の教育が向かっている方向には強い危機感を持っています。しかし、保育に関してはまだ明るいものを感じています。それはルソー、フレーベル、日本では倉橋惣三などの先駆者がさまざまな保育思想や実践を積み重ねてくれたおかげで、子ども中心の自由主義的な保育という考え方がいまも根付いているためです。そういう蓄積は「保育所保育指針」という法律にも反映されていて、12月1日の記事にも書きましたが、私が読んだ教育関係の法律のなかでは、珍しく共感できるものでした(http://blog.so-net.ne.jp/kyoikushiminnokai_in_shiga/archive/20071201)。

有名な保育の先駆者について、簡単に紹介しておきます。
ルソー(1712〜1778)
啓蒙思想の代表者として、また、児童中心的近代教育の出発点として位置づけられているルソーの思想内容は、今日なお多くの人々に影響を与え続けている。
(略)

その児童観は「性善説」として知られ、「造物主の手を離れるとき、すべてのものは善であるが、人間の手に移されると、すべてのものが悪くなってしまう」に端的に示されているものである。この児童観から帰結されるものは、人間の本性を善と見、それを損ないゆがめるものは腐敗し汚れた社会であり、そのに住む大人たちの手によって行われる教育は間違った教育であるということになる。それゆえ、その解決策として出てくるものは、教えないことこそが教育であるとする「消極的教育」であり、ゆがんだ伝統や習慣から自由でありうる「自然主義教育」である。
(略)
その教育目的とするものは、文字による教育や知識をより多く与えようとする教育ではなく、自分で感じ、考え、判断でき、しかもそれを理性的に遂行できる人間の育成であり、それは、具体的な生活体験に基づいてなされなければならないものであった。彼はまた、「不確かな未来のために現在を犠牲にする愚」をいましめ、現在を十分に生きることこそ、現在を幸福にするにとどまらず、次の健全な成長をもたらすものであるとして、伝統的な「生活準備説」的考え方を否定し、子ども期の独自な価値を主張した。

フレーベル(1782〜1852)
*小さな子どもをお持ちの方は、アンパンマンの本やグッズが出ている「フレーベル館」(やなせたかしさんが作られたのでしょうね)を先に思い浮かべるかもしれません。実は私がそうでした(笑)。

フレーベルは、「幼稚園」とよばれる幼児教育施設を創設し、それが世界の幼稚園の原型になったこと、また「恩物」(Gabe)とよばれる一連の遊具を開発したことで、広く知られている。
(略)
フレーベルの教育思想の根源には、「万物在神論」とよばれるものがあり、自然、宇宙を含めて人間の本質もまた神的なものと捉える。それゆえ、教育とは子どもの中に宿る善なる神性をゆがめることなく発現させ、助長させることにあるとする。そのため、 「受動的、追随的教育」を主張し、「けっして命令的、規定的、干渉的であってはならない」とする。

フレーベルの幼児教育への最大の貢献は「遊び」のもつ教育的異議を明確に捉えた。彼は、「遊戯することないし遊戯は、幼児の発達、つまりこの時期の人間の発達の最高の段階である」として、子どもの自己表現活動である遊びの意義を重視し、その遊びを通して、子どもの神性が発現し、定着する保育を考えた。このような幼児期における遊びの重要性の認識にもとづいて、その遊びの展開のための遊具として考案されたのが「恩物」である。

倉橋惣三(1882〜1956)
大正時代の初期から第二次世界大戦後までの長い間、わが国の幼児教育界において指導的役割を果たし続け、また理論、実践の両面にわたってきわめて大きな影響を与えた。
(略)
東京帝国大学の心理学を専攻したあと、東京女子高等師範学校で児童心理学や教育学を担当するかたわら、附属幼稚園の主事として、幼稚園教育に多大の貢献をした。たとえば、日本幼稚園協会の機関誌「婦人と子ども」(後の「幼児教育」)の編集主幹となり、全国各地で講習会や講演会を行うなど、精力的に活動し続けた。(略)

彼は、その専攻した心理学に基づいた科学的、客観的な子ども理解、発達理解だけでなく、子どもに対するあたたかいまなざし、共感的理解をもち、彼独自の児童中心主義的保育理論を形成し、それを、詩的な言葉でゆたかに表現した。その主たる著書として、「幼稚園雑草」(1926)、「育て心」(1936)、「幼稚園真諦」(1934)等があり・・・・。

その保育思想はフレーベルを深く研究し、その形式だけではなく、精神そのものを大切にしようとしたものである。(略)

倉橋の保育理論は今日「誘導保育論」として知られており、それは、「生活を生活で生活へ」ということばで表されているものである。その意味するものは、幼児のさながらの生活をスタートとし、それを生かすことから始まる。そのためには、自由な遊びが大切にされなければならないし適当な環境が用意されなければならない。そして、そこでの活動が、幼児の表面的な好奇心にとどまらず、心から満足できる「自己充実」の活動であることが望まれる。幼児が、自分の興味にあった活動に出会い、充実してそれに取り組んでいるとき、保育の仕事はそれをあたたかく見守ることである。

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こうして書いているうちに、やはり手紙を担任の先生に渡そうかという気持ちになってきました。うちの子どもにとってはトラウマになってなさそうな今回のできごとですが、親としてはやはり十分納得できません。たぶん先生方は良かれと思って計画してくださったことだと信じていますが、現在の「子ども性悪説」・・・放っておくと悪くなるから、教育の力で規範を身につけさせよう・・・という時代の空気を微妙に反映しているように思えるからです。小さなことですが、やはり「ものを言う保護者」であるべきでしょう。




2008-02-05 14:52  nice!(3)  コメント(11)  トラックバック(2) 

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志村建世

心の中の鬼という言葉を使い、節分の行事に現代的な意味を持たせたこの保育園の先生は、なかなかのすぐれ者ではないかと私は思いました。怖がらせずに、克己心に気付かせ、「鬼は外」で追い払うという、楽しい行事にしてほしいと思います。アイディアを褒めてあげて、改善の提案をしてあげたらどうでしょう。園の名物行事になるかもしれませんよ。
by 志村建世 (2008-02-05 15:53) 

mai

志村建世さん
コメントどうもありがとうございます。なるほど〜、そういう考え方もあるのですね。私は(しつけはもちろん大切ですが)、子どもは天使(笑)というか、神さまからの預かりものというような感覚が強いので、「子どもの心のなかに鬼がいる」という発想をしたことがなく、ボードに書いてあるのをみて、正直倒れそうなほどショックでした。数日間、気持ちが晴れませんでした。志村さんのコメントを拝見して、教育観や教育法は一つではないのだなと何となく余裕のある気持ちになれました。世代やバックグラウンドの異なる方の意見をお聞きできるのは、ブログならではですね。嬉しく思います。
by mai (2008-02-05 18:10) 

東西南北

 「たぶん先生方は良かれと思って計画してくださったことだと信じていますが、現在の「子ども性悪説」・・・放っておくと悪くなるから、教育の力で規範を身につけさせよう・・・という時代の空気を微妙に反映しているように思えるからです。小さなことですが、やはり「ものを言う保護者」であるべきでしょう。」

 東西はまいさんの認識に全面賛成です。このような態度と思いで先生に渡すお手紙は「クレーム」でもなんでもありません。先生も心強く感じると思います。保育所の先生の多くは「人間は生まれながらに天使」だと考えて保育してるんじゃないでしょうか?なにを言ってもどんな教育をしても人間は性悪だから無駄である、という先生は体罰容認の先生でもまれだと思います。「人間社会からいじめはなくならない、それが人間かもしれない」と性悪説、懲罰、応報主義に迷わされている時に、まいさんのような保護者がいてくれれば絶対に励まされます。怖いからいうことをきく、お金をくれるからいうことを聞く、鞭と飴に支配、従属する人間だけにはしたくないですね。

 
by 東西南北 (2008-02-05 19:36) 

hm

 うーん、私も当初、maiさんと同じ疑問を持ってしまいました。

 私自身、人から「鬼だ」と言われることはあっても、自分で「鬼だ」と思うことなんてないしなあ・・・
 心に追い払うべき「鬼」がいる、ともあんまり思ったこともないし、追い払った覚えもないし・・・
 私には合わないなあ、そういう発想は・・・と。
 
 でも、その保育園の先生は、自分の良くない(と自分でおもう)心と闘って努力した経験があって、そういうことに価値を見いだして伝えようとされているのかもしれない、とも思いました。志村さんのコメントを読んで。
 
 おそらく保育園のこの行事の先生のやり方の難点は、「ちょい押しつけがましいなあ」というところなんでしょうね。
 克己心を伝えたいという先生の気持ちに悪いところはないけど、子供によって合う合わないがあるから、親や子供としても合わないなあと思えば「なんとなく聞くが、半分スルー」みたいな受け止めでいいんだろう、と思います。

 って、たぶん、保育園、小学校・・・と進んでいく中で、こういうことって日常ちょくちょく起こってくるんでしょうねぇ。
 まあ、先生の考えと親の考えが違ったときは、(もちろん先生への敬意を損なわないようなやり方で)「先生はこういう気持ちで言ってるんだろう。それにはもっともなところもあるけど、ぼくはこう思う。」というのを子供に伝えていきたいな、と私は思っています。子供が色んなものにであって消化しきれない苦しみなどをうまく助けてあげれば、と思いますね。それに大人と言っても考え方は人それぞれある、ということも発達段階に応じて。
by hm (2008-02-06 13:26) 

 私も教育職のはしくれなんで思うんですが、くだんの先生はものすごく熱意のある方なんでしょうね。節分なんぞ形だけでも誰も怒らないと思うんですが、やる以上はいささかでも教育的意義を与えたかったんじゃないでしょうか。
 ただ、先生のあふれる熱意ってのは、往々にしてうっとうしいものでもあります。薄情な先生の方がかえって助かるという場合も結構あります。
 先生方に余裕があれば、maiさんも感じたことを伝えるのに余計な遠慮はしなくてすむと思うんですが、現実の現場は汲々としてますんで、どうしても気を遣っちゃいますよねえ。
PS: RSSに加えさせて頂きました。
by (2008-02-06 19:52) 

mai

岩国市長選など大切なことがたくさんあるなかで、保育園の節分という何とものどかな話題にお付き合いくださって、どうもありがとうございます☆子どもの自尊感情をどう育てるかというテーマに少しは関係しているかとも思いますが・・・(汗)。みなさんのご意見を参考にして、もう少し考えてからお手紙を渡そうと思います。

>東西南北さん
励ましてくださり、どうもありがとうございます。やっぱり「クレームと取られるかなあ」という心配もありましたが、そう言っていただき勇気が出ました。私が見る限りでも、保育園の先生方は、時には子どもたちの腕白やわがままに悩まされながらも、基本的には子ども好きで良い子になってほしいという気持ちがいっぱいのように感じます。本で読む限り欧米の保育園や学校と比べると、訓練式保育(運動会や発表会の練習など)が目立つとも思いますが、日本のお国柄かもしれません。親として拒否感を持つほどのものでもないです。ところで、岩国市長選、井原さんが当選されることを祈っています。

>hmさん
「ちょい押しつけがましいなあ」・・・そうそう、その通りです。私が感じた違和感を簡潔に表してくださいました。

>って、たぶん、保育園、小学校・・・と進んでいく中で、こういうことって日常ちょくちょく起こってくるんでしょうねぇ。
たぶん、次から次へと出てくるように思います〜。そのたびに今回のようにめげこんでいては身が持たないので、hmさん式の方法も参考にして前向きに対応していきたいです。スルーする部分とこだわる部分の見分けの腕を磨くことにします。

>shiraさん
先生の立場からどうもありがとうございます。
>やる以上はいささかでも教育的意義を与えたかったんじゃないでしょうか。
 ただ、先生のあふれる熱意ってのは、往々にしてうっとうしいものでもあります。薄情な先生の方がかえって助かるという場合も結構あります。

なるほど〜。大いに納得です。金八先生のような方がいたら嬉しい反面、事柄によってはうっとうしいかもしれませんね。それと、そのノリに合う子と合わない子がいるでしょう。思いを伝えるにしても、先生方の心の負担にできるだけならない文面や方法を考えようと思います。

RSSに加えていただきありがとうございます。それほど更新できず内容も自信がないのですが、今後ともよろしくお願いします。私ものちほど、RSSに加えさせていただきます☆
by mai (2008-02-06 20:44) 

tamara

まいさん、保育園でもいろいろ気を使いますね。
私は、「みんなで鬼を想像して絵をかいて見よう。」ぐらいでいいのだと思います。心の中の鬼、という考え方は、保育園児には早すぎると思いますよ。節分の意味は「家に災いが起きませんように。幸せな年でありますように。」という意味でしょう。(伝統行事でも子供を必要以上に脅えさせるものがありますが、決していいものじゃないと思います。)
by tamara (2008-02-06 21:11) 

mai

tamaraさん
ありがとうございます。そうなのです〜。私も「えっ、保育園児(しかも年長ではない)に?早すぎない?」とまず感じました。念のためネットで節分の由来や意味も調べましたが、tamaraさんの書いておられる通りで、その意味を変えてしまう指導法にも疑問があります。ただでさえ日本の子どもの自尊感情は低すぎるのですから、それをさらに下げかねない言葉はどうかなあ〜と思います。
by mai (2008-02-07 14:32) 

散策

はじめまして。なぜかRSSに登録させていただだいて、題だけ拝見させていただいています。実はうちの娘も節分の鬼が恐く、半年ぐらい前から節分の日は園に行かないといっていました。そこで、園の先生に、こどもが恐がっていることを口頭で伝えておきました。娘にも本物じゃないので恐くないよといっておいたら、行けるから大丈夫というようになりました。「数日前、まめまき恐くなかった?」と聞くと、「今年は年長さんが鬼の役をやったの。だから全然恐くなかった。福の神も皆でつくったんだよ。」といっていました。娘のいうことなので、実際どうだったのかはわかりませんが、娘には楽しめる行事となったようです。
by 散策 (2008-02-09 08:02) 

散策

失礼しました。朝、娘に聞いたら、先生も年長さんと一緒に鬼をやっていたそうです。去年は、「誰かが、やってんじゃないの?」と言っても、「あれは本物の鬼だよ。」と言っていました。
by 散策 (2008-02-09 10:23) 

mai

散策さん
初めまして。コメントどうもありがとうございます。お嬢さんもほんものの鬼だと思っていたのですか〜。うちと同じですね。半年ぐらい前から節分の日は園に行かないと言っておられたとは、本当に怖かったのですね。そう言えば、うちは前日くらいに「明日行きたくないなあ」「どうして?」「鬼が来るから」というやり取りがありました。やはり、この年齢の子どもにとっては鬼は怖い存在なのですね。散策さんが先生に伝えられたから、年長さんが鬼の役をやるように配慮してくださったのでしょう。「子どもがこわがるから・・・」という言い方は角が立たないですね。
RSSに入れていただき、どうもありがとうございます。また、こちらからも訪問させてください。これからもよろしくお願いします。
by mai (2008-02-09 20:09) 

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