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心理学者・小沢牧子さんの講演を聴きました [子どもの世界]

子どもの場所から

子どもの場所から

  • 作者: 小沢 牧子
  • 出版社/メーカー: 小沢昔ばなし研究所
  • 発売日: 2006/07
  • メディア: 単行本

リベラルな考え方を持つ臨床心理学者で、現在は和光大学オープンカレッジ講師、日本社会臨床学会運営委員を務めておられる小沢牧子さんという方の講演を聴きました。講演タイトルは「子どもの場所から−子どもと本とおとなのかかわり」。「子どもの場所から」というのは小沢さんが昨年出版された本の名前です。

この本は、ご自分の子どもさんとの関わりから、現在の親子関係の世相まで、広く子どもとおとなの問題を綴ったエッセイ集です。連載されたのをまとめたものなのですが、後半部分になって教育基本法改正や自民党流の教育改革の動きが出てくるにつれて、文章に何とも言えない緊迫感と苦悩が出ていて、そのあたりの文章を読むと、「あのころ」を思い出して、私も胸が痛くなります。

今回の講演会は「子ども・本・文化を考える会」という市民団体が主催したもので、子ども、おとな、本をキーワードにして子どもとの関わり方を考えてみようという感じでした。

まず、小沢さんからいただいたレジメを紹介します。
1)「子育て」と「子どもと暮らす」
・「子育て」の中身は?
・教える、導く、育てる、の落とし穴
・並び立つ楽しい仲間としての子ども

2)子どもを縛る「ねばならぬ」
・評価のまなざしと限りない努力の要求
・率直な「命令」と屈折した「自発的服従」と
・「子ども身分」の長期化

3)絵本・本がくれる「仲間の世界」
・「情報・選択・消費」から「偶然・縁・発酵」へ
・絵本の力−出会い、繰り返し、合いの手、家族文化

4)親子関係意識の二つのかたち
・親子一体意識
・親子仲間意識
・過去と未来のはざまで、未来に向かって

5)いま、未来に向けて、止めなくてはならないこと
・学校教育の私企業化
・子どもの「分別」の進行
・国家による家庭への介入

私は用事で大幅に遅刻してしまって、レジメでいうと2)の後半あたりから聴きましたが、とても興味深い講演でした。心身が疲れている最近は、子どもの相手も「楽しい」というより「たいへん」という気持ちが先立っていたのですが、小沢さんのお話を聴くと、子どもがいとおしくなり、「早く帰って顔を見たい。一緒に遊びたい」と思いましたので、それだけ威力(?!)のある講演でした。
その場の再現はとても無理ですが、メモを見ながら覚えている範囲で書いておきます。

小沢さんは臨床心理学者ですが、カウンセリングで陥りやすい危険性についてお話しされました。それは、カウンセリングはそもそも力のあるものがない者に対して行うことが前提とされている。子どもがおとなに対して、カウンセリング技法を用いて悩みを聞いたりしようとすると「生意気」と言われる。子どもと教師の関係もそう。つまり、カウンセリングは「一見おだやかに見える支配技術」になり得る。率直な命令と屈折した自発的服従。上下関係に見えない手法である。そういう関係を家庭にまで持ち込まないようにしたい。

次に絵本の話に入りました。小沢さんの体験によれば、絵本は親をやっている緊張をふっとばしてくれたそうです。絵本のなかで展開されるおはなしを通して、親子が対等なつき合いができる。人間の原点に触れるものがある。親子の対等な関係とは何か?まず友だちになること。

そうは言っても、いまでは子どもの世界も消費社会に組み込まれている。いろいろなところに「お勧めの10冊」などという絵本の紹介が出ている。しかし、そういう情報で選ばずで本を選びたい。そして発酵すること。時間をかけて家族のなかで本と関わっていくうちに、自分たちだけのものになる。出会いは偶然。自分たち家族の文化は、かけがえのない財産になる。そして一例として、一家でドイツに留学された時に巡り会った半眼のネズミ、フレデリックの話をされました。

消費・情報の社会は行き詰まっている。その正反対にあるのが「なじみの世界」。「なじみの世界」が暮らしの基本になる。

新教育基本法では「家庭教育」の項目が設けられ、親の責任が強調されている。「親学」を受けたかどうか母子手帳にハンコを押すという案もある。しかし、そういう「対等に見える操作関係」ではなく、親子仲間意識が大切ではないか。

親子仲間意識とは
・親子の縁
・たまたま出会った、かけがえのないわが子
・一緒に暮らす
・つき合う、折り合う
・見て学ぶ、教え合う、育つ、相互影響

*私は最近よく目にする親学や○○育(例:食育)という考え方に、何とも言えない違和感を感じています。小沢さんの講演を聞いて、やはりこれらは「上からの目線」なのだろうと思いました。縁を大切にして、時間をかけ自分たち家族の文化を創っていく。そういう発想でものを考えたとき、子どもとおとなの関係がとても豊かで楽しいものになると思います。


2007-09-03 12:13  nice!(0)  コメント(10)  トラックバック(1) 

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志村建世

親に「子供を育てるための正しい知識」が必要であることは疑いありません。しかしそれを政府公認の「親学」にして必修にするというのは、どうでしょうか。
 放っておいたら学ばない親が多いことは事実でしょう。何かのアクションが必要なのは事実です。自発的に学ぶ人が仲間を増やすこと。手間はかかるけど、それが最善の方法でしょう。もしも「親学」が強制される事態になったら、その内容をめぐる議論が大切になりますね。
by 志村建世 (2007-09-05 15:27) 

mai

志村さん、コメントどうもありがとうございます。教育基本法の問題以来、私は安倍内閣の教育政策に対して徹底的に不信感を持ってしまいました。本当は是々非々で臨むべきかもしれませんが、政府の望むような家庭作り、人作りをしようとしているのが、何だかすぐに透けて見えるようになってしまって(被害妄想の気もあるのかもしれません)・・。
ところで、親になるための知識というのは、病気や細かい育児の各論を除いて、それ自身独立しているのではなく、親がまだ学生の時代から「自分の頭でしっかりと考える力をつけること」「自分と周りの人に対して肯定的な感情を持つこと」が基本なのではないかと思っています。
少し話はずれますが、山形新聞にフィンランドの教育事情(就学前から小学校を焦点として)という特集が載っています。フィンランドを全面的に肯定するわけではありませんが、そういう実践に未来の親を作る大切な芽があるように感じます。http://yamagata-np.jp/media/news_archive/finland.html。よろしかったら、ご一読ください。

志村さんが書かれたように「自発的に学ぶ仲間を増やすこと」。大賛成です。小沢さんの講演資料でも「生活のなかの仲間のつながりというヨコ糸」と表現され、重視しておられます。現政府は個人−家庭−国家というタテ糸を重視しすぎているとも。おっしゃるように手間はかかるけれど最善の方法だと思います。
by mai (2007-09-06 00:21) 

tamara

まいさん、元気が出る講演会で良かったですね。小沢さんの本私も読んでみたいと思います。(と、こうやって、読みたい本がどんどんたまってしまうのに困っていますが・・・)
山形新聞の記事も読みました。戦後新たに日本の教育の中でも目指そうとした教育観が、フィンランドではしっかり根付いているのですね。うらやましいです。
政府が一番勘違いしていることは、家庭教育が大事と政府が決めても、肝心の「子供放ったらかしの家庭」には全く伝わらない事です。そんな余裕がない家庭がものすごく多いのですから。(良心的な人達が政府のありように胸を痛めているだけです。)戦時ともなればそれをてこにして次々に、新法案を出してくるのでしょうね。それが怖いです。
今の政治が続いているかぎり、私達は生活のすみずみまで不快感を味わって生きていくしかないですねぇ。
by tamara (2007-09-06 11:03) 

mai

tamaraさん、こんにちは。小沢さんの文章は本当に上手で、スラスラ読めます。そして内容は深くて考えさせられます。tamaraさんのお考えと近い方のように思います。機会があれば、ぜひお読みになってください☆

>家庭教育が大事と政府が決めても、肝心の「子供放ったらかしの家庭」には全く伝わらない事です。そんな余裕がない家庭がものすごく多いのですから。
経済的、精神的に余裕のない家庭が多いのでしょうか。この格差社会のなかで、「子どもと向き合う」ゆとりがない家庭はまだまだ増えていきそうに思います。

>今の政治が続いているかぎり、私達は生活のすみずみまで不快感を味わって生きていくしかないですねぇ。
そう思います。国に対して基本的な信頼感が持てないということがどれだけ辛いかを実感しています。私などは決して裕福ではありませんが、最低限の生活には困っていないので、本当にたいへんな方の気持ちはわからないかもしれませんが・・。こんなに不快感が続くと、寿命が何年か縮んでしまいそうです(本当に!)。
by mai (2007-09-06 16:42) 

wakuwaku_44

最近の教育論は「頭脳で行うもの」が多い気がしますね。人間は機械じゃないんですから、難しい理論や理屈はさておき、もっと「身体に染み付いたもの」じゃないと、自然と育つことはできないと思います。

別に以前も今ほど親は子にコミットしていなかったと思います。子どもは子どもの世界があって、下手に親は介入していない。子どもの中で起こるケンカも、基本的には子供同士で解決していった。親や大人は、アドバイザー的な立場であったり、時には仲裁する立場だったような気がします。

また、「子どもは親の背中を見て育つ」というように、あれこれ説明しなくても、親の姿勢を子どもが見て、それで子どもはいろいろと身に付けていった。

今では肯定されない「体罰」について、子ども自身もそれをある意味受け入れることができた。それは、「何かあったら前に立って身体を張って守る親の姿」があったからです。『何があっても、最後まで父母はあなたの味方だ』という絶大な信頼感、それが「暴力だ」と批判されている「体罰」すら子どもが受け入れるほどの「絆」だったんだと思うのです。

その「絆」をどれだけ作れるのか、ということが家庭教育の生命線じゃないかなって私は思います。
体罰を肯定するつもりはありませんが、誤解を怖れずに言えば『体罰ぐらいで壊れないほどの強力な絆を築くこと』が家庭教育の要諦であり、それ以外は、その延長上で自然についてくるもんじゃないかなって思います。


そして、教育とは、「人と人との交わり」の中で育まれるものだと思います。
それが「地域社会」。以前は、「地域全体が家族のようなもの」だったそうです。そこにはプライバシーはありません。でも、それは当然なんです。「家族」なんですから、みんながみんな心配してくれる。一生懸命やっていれば、本当に応援してくれる。賞をとったり活躍すれば、家族のように祝ってくれる。そういう仲にプライバシーなんてない。だから、すごく親身になってくれるわけです。

こういうように、子どもが「学ぶ場」というのが、学校にも地域にも常に用意されていて、だから「家庭教育」が『無意識のうちに』行われていたわけですね。

こういうとmaiさんから反論されそうですが、「人権」偏重の考え方を、とりあえず横においておき、昔ながらの「地域一体」という、人権とは反対側の状態も受け入れてみてはいかがでしょうか?
その上で、改めて「人権」の意義を「理解しながら取り入れる」ことをしてみてはいかがでしょうか?

前述のように、昔の「地域社会」には「プライバシー」の概念が薄い。しかし、これは「みんなが家族的な思いを持っているから」ということであれば、プライバシーの保護のあり方も、四角四面ではなく、もっと柔軟に取り入れられるんじゃないかなって思います。

考えてみてください。「個人」ばかりが強調されて、活躍しても、誰にも祝ってもらえずに静かな家に帰ることと、「集団」が生きていて、活躍すれば村がみんなで「おめでとう!」祝ってくれる中で家に帰ることと、どちらがうれしいか。

想像してみてください。「個人」ばかりが強調されて、あなた自身の悲しみを周囲が「他人事だ」と突き放され、形だけ同情されていることと、「仲間」が生きていて、あなたの悲しみが仲間みんなの悲しみとして一緒に泣いてくれて、そして立ち直るのにみんなが協力してくれることと、どちらが心強いことなのか。

『古き良き時代』というものをもう一度見直すだけの余裕があれば、maiさんが望む社会というのが、かえって実現されやすくなるんじゃないかなって私は思います。
by wakuwaku_44 (2007-09-06 22:01) 

wakuwaku_44

いつもながらに、長文で申し訳ありません。
教育論について、学校教育にも触れたので、それについても。

まず、「学校」というのが、単に「知識を養うところ」ではない、という意識が肝心だと思います。
特に小学校は、子どもが初めて体験する「見知らぬ人との出会い」と「自分で選べない人たちとの共同生活」の場なんです。
そこで『社会』というものの基本もまた体得せねばならない。

さらに、学校というのは、特に地方に行けば、地域の文化祭や運動会にも開放されます。昔は地域の集会場としても使われていました。
それこそ「校下」というように、小学校は「地域の象徴」であり「地域の中心」だったのです。

つまり、「知識の詰め込み」や「ゆとり教育」といった、いわゆる学校教育だけが小学校の存在意義ではない、ということです。


そして、次に、「教えること」についてですが、『教師自身、子どもたちから学んでいる』ことを認識しなければなりません。

「自分が知っている」ことと「相手に知っていることを伝えること」は似て非なるものです。
「教える」ためには、「自分自身が本当に理解すること」が必要ですし、「相手に合わせてそれを応用できる」という要素が必要となってきます。
特に理解度が低い子に対しては、自分の知識をいかに応用して理解させるのか、ということが問われてくる。
こうなってくると、「教え方」もさることながら「子どもたちと一緒に学ぶ」という姿勢が大切になってくるのです。
言い換えれば『上から下へ』だけでなく『横一線で、一緒に』という人間性も教師は身に付けなければならない。

これは親も一緒で、「子どもから教わった」という謙虚な姿勢があれば、子どもたちと一緒に歩むという気持ちになれると思います。
そこから生まれる仲間意識や愛情は、以前お話した「体罰を受けても崩れない絆」に匹敵する絆として強固に結ばれるものだと信じています。

私の実体験で恐縮ですが、中学のとき、同級生で、教師にしょっちゅう怒られていた生徒がいました。廊下で正座させられたり、時には棒みたいのでぶったたかれたりした子です。その子が高校に合格したときに、偶然に見たんですが、職員室で、以前殴った先生と一緒に号泣してるんですね。その教師も目を赤く腫らして、鼻水ダラダラ流して。
こういう信頼感を生徒に与えられる人間力、こういう教師がもっと増えれくれればいいなと思いますし、国や世論も、正当化できないだろうけど、ある程度容認する寛容さがあってくれればな、と感じます。
by wakuwaku_44 (2007-09-06 22:13) 

くるみわりのケイト

 牧子さんの講演会に私も行きました。詳しくはまた報告するとして、痛感するのは、私達が子ども達のためにするべきことは、子ども達が未来をいききと生きていける世の中にするために、親同士がつながったり、政治に対してものを言っていくことなのではないかということです。競争社会で生きていくためには、競争に勝てる子どもにと、自分の子どもをどうにかすることばかりに夢中になっていては、子どもを送り出す社会は今のままではどんどんひどくなってしまいます。地域社会が大切なことは言うまでもありません。学校を中心に親同士が、学童保育やスポ小、子ども会で知り合い、学び、子どもの成長を喜び合ったり、汗をかいて活動しながら、くらしているのです。阿部総理が進めるバウチャー・学校選択制は、その意味からも人と人とのつながりを破壊し、孤独にしていくものだと思います。そういいながらも、あれこれと子どものすることに口をだし、さきさき考えてしまう自分もカウンセラー化していないかと反省しきり。一緒に聞きにいった夫が「いつもおれが言っている事と同じや」と言われてしまいました。あんなふうにうまく話せもしないのにさ。
by くるみわりのケイト (2007-09-08 20:13) 

mai

>WAKUWAKU_44さん
コメントありがとうございます。長文で書いてくださり、一気には意見交換しにくいですので、部分的なお返事になるかもしれません。それと、私は子どもが学齢前であり、知人に尋ねたり本を読んだりしてできる限りの情報収集はしていますが、教育現場のいまの状況を正確に知っているわけではないことを了承ください。

「子どもは子どもが大好きであり、そのなかでいろいろなことを学んでいく」というお考えは賛成です。ただ、現在は条件が変わってきているのも事実だと思います。昔ほど兄弟数が多くなく、地域で遊ぼうとしてもみんな習い事や塾に忙しくてなかなか日にちが合わない(これは親の考え方の変化にもよると思います)、テレビゲームなど室内遊びが多く昔のようにガキ大将がいる外遊び中心ではなくなってきている。そういうこともあって以前のような年齢を問わない子ども集団はできにくくなっているようですね。

また、「親の背中を見て育つ」についても、国民の過半数が農業(自営)で職と住が近接していた時代と比べて、現在の働き盛りのサラリーマンは子どもが寝ているうちに出勤して帰宅は深夜という人も多いですね。そうでなくても、会社と家とは距離的・心理的に遠いもので、なかなか「背中が見えない」家庭も多いと思います。

もちろん、そのなかでも親子のなかで基本的信頼感を培うことはできるはずですが、そういう条件の変化は考えなくてはならないかと思います。

体罰については、うちの子はなかなかきかん気で、実は親子喧嘩の時にたたき合いになったりすることもあります(もちろん大人は手加減しています)。ただ、私はそういう時、「体罰を与えている」という意識はあまりないです。親として見逃せないことを注意して喧嘩になるので、しつけをしていることになるのですが、どう言えばいいのでしょうか、小沢さんではありませんが何となく仲間意識があるので、「これは絶対にしてはいけないことだけれど、子どもとしては納得できないのだな。じゃあ、何回かにわけて言ってきかせたり、また喧嘩したり気長にやっていこう」と思ってやっています。

WAKUWAKUさんのお考えのなかで、ごめんなさい、私と違うと思ったのは、人権と地域社会のくだりです。WAKUWAKUさんは、たぶん「いきすぎた人権尊重がわがままな人間を作り、地域共同体や社会を損なう大きな原因となっている」という説をとっておられるのではないでしょうか。私は人権と社会集団での心地よい営みは、相反するものではなく、同じ側にあるものだと考えています。

言い古された言葉ですが「みんなは一人のために、一人はみんなのために」。一人ひとりの人権というか存在がきちんと認められ守られていて、そういう人が集まることによって良い集団ができると思っています。自分を肯定し好きになれない人が、他者を尊重し優しく接することはできないでしょう。さらに、関係の良い集団というのは、お互いが我慢するものではなく、それぞれの個性をありのままに認め合うものだと思います。

教師自身、子どもから学んでいる・・・賛成です。立場や年齢の上下にかかわらず、いろいろな場面で学びができるというのは良いことですね。体罰については、全部が全部悪いとは思っていませんが、基本的にはどうこう言っても教師は生徒よりも強い立場にあり、極端に言えば、生徒の人生を左右する(心理的にも、内申書などで実務的にも)存在になり得ます。そういう強者が弱者に暴力を振るうというのは、原則として許されないでしょうね。例外的には生徒自身や他者の安全に関わる危険性があるとき、緊急避難的に(危ない!という反射で)手が出てしまというのは理解できます。ケースバイケースの部分もあるとは思いますが、暴力を交えてことを改善しようとする姿勢はやはり問題だと思います。

ちなみに、欧州諸国では、教師が体罰を加えれば警察に通報されても仕方がないそうです。日本でそこまでいくのが妥当かどうかはわかりませんし、外国の例が全部正しいとは思いませんが、そういう国もあります。

WAKUWAKUさんのおっしゃる絆や愛情が教師からの一方通行(思いこみ)でなく、真に生徒と共有されているのなら、また話は違ってくるのかもしれません。
by mai (2007-09-09 23:57) 

mai

>くるみわりのケイトさん
ケイトさ〜ん、初コメント、ありがとうございます!小沢さんの講演は大遅刻の上、走り書きのメモのまとめなので、またきちんとまとめられたら、教えてくださいね。ヨコのつながり(親同士、保護者と先生方)は本当に大切ですね。いまは、それが分断されている気がします。地域でのつながりは、何としても維持したいですね。そのためには、やっぱり政治に関わらざるを得ないわけで(もちろん超微力ですが、市民の義務として)、お互いたいへんですね(ふう〜)。夫さん頼もしいじゃないですか。ノンポリ夫を持つ私からすればうらやましい限りですよー。
by mai (2007-09-10 00:08) 

wakuwaku_44

maiさんへ

>私は人権と社会集団での心地よい営みは、相反するものではなく、同じ側にあるものだと考えています。

そうご理解いただいているのであれば、私はmaiさんへ反論していることにはなりません。むしろ、maiさんと同じ側だとご理解くだされれば、と思っています。
私は「プライバシー」だとか「私の勝手」というような意味での「人権」がまかり通っていることに危惧を感じているのです。

「みんなに支えられている」ということが実感できれば、「これは権利だから」と一方的に主張することなく、受容するという姿勢が取れると思います。
逆に、周囲は周囲で「その人のために」という気持ちを持ち、「その人という個人を尊重する」上での関わりですから、これは「思いやり」であって「押し付け」ではなくなるでしょう。

>WAKUWAKUさんのおっしゃる絆や愛情が教師からの一方通行(思いこみ)でなく、真に生徒と共有されているのなら、また話は違ってくるのかもしれません。

『殴られた側が殴った側の気持ちを理解し、本当に反省する』という『本来の体罰の意味』が効果を生むのは、絆や愛情が生徒と共有されていることが絶対条件です。
もっと言えば、体罰を必要としない教師ほど、生徒については「この先生に殴られたのなら納得できる」、その親には「殴られたお前が悪い」という受け止められ方をされるものです。

一方通行のものは、教育評論家や体罰批判論者が「教育とはこうあるべき」というものであっても、生徒には伝わるものではありません。

体罰では崩れない「絆」というのは、一方通行の愛情では構築できるものではありません。双方向の理解があるからこそ体罰ぐらいで崩れないほど強固なものなんです。
by wakuwaku_44 (2007-09-10 15:15) 

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